気象研究所地球化学研究部では、1954年以来、環境放射能の観測・測定法の開発、放射能汚染の実態の把握、大気や海洋における物質輸送解明のトレーサーとしての利用を目的として環境放射能の研究を実施してきた。1957年以降、原子力及び放射能に関する行政は科学技術庁が所管することとなり、各省庁がそれぞれの所掌で実施してきた環境放射能調査研究関連業務は放射能調査研究費によって統一的に実施することとなった。気象研究所地球化学研究部では、環境中の人工放射性核種の分布とその挙動を50年以上にわたって観測・研究してきた。このような長期にわたる観測・研究の結果、環境放射能について世界的に他に類を見ない貴重な時系列データを内外に提供すると共に、様々な気象学・海洋学的発見をもたらしてきている。この間の研究成果は200編以上の論文として内外の雑誌で公表されている。

195431日に米国によりビキニ環礁で行われた水爆実験により、危険水域外で操業していた第五福竜丸乗組員が放射性物質を含む降灰(いわゆる死の灰)による被曝を受けた事件を契機にして、日本における環境放射能研究が本格的に始まった。当時の地球化学研究室は環境の放射能を分析・研究できる日本で有数の研究室であり、三宅康雄の指導のもと、海洋及び大気中の放射能汚染の調査・研究に精力的に取り組んだ。その結果、当時予想されていなかった海洋の放射能汚染、さらに大気を経由して日本への影響など放射能汚染の拡大の実態を明らかにすることができた。1958年から、放射能調査研究費による特定研究課題の一つである「放射化学分析(落下塵・降水・海水中の放射性物質の研究)」を開始し、札幌、仙台、東京、大阪、福岡の五つの管区気象台、秋田、稚内、釧路、石垣島の4地方気象台、輪島、米子の2測候所の全国11気象官署及び観測船で採取した海水中の人工放射性核種(90Sr, 137Cs, 3H及びプルトニウム同位体)の分析を実施してきた。

大気中の人工放射性核種の降下量は1961年から1962年に行われた大規模大気圏核実験の翌1963年に最大値を観測した。その後、「部分的核実験禁止条約」の締結により米ソの大気圏核実験が中止された結果、降下量はおよそ1年の半減滞留時間で減少した。この放射性核種の降下量の時間変化は成層圏に打ち上げられた物質の成層圏での滞留時間を反映している。その後、中国及びフランスにより大気圏核実験は続けられ、人工放射性核種の降下量は増減を繰り返した。1980年最後の中国大気圏核実験の後、放射性フォールアウトは成層圏の滞留時間で減少し、1985年には1957年の観測開始以降最も低いレベルになった。しかし、1986年旧ソ連のチェルノブイリ原子力発電所事故により、大気中の人工放射性核種濃度(特に揮発性の高い131I, 137Cs, 134Csなど)は日本でも1963年に近いレベルに達するほど著しく増加した。大部分の放射性核種は対流圏の滞留時間(25日)で減少したが一部137Csは成層圏にも輸送されていることが分かった。1988年以降は低いレベルで推移しているが、明瞭な減少の傾向は見られない。この原因は一度地上に降下した放射性核種の再浮遊に由来すると考えている。さらに、再浮遊がどこで起るかについて研究を進め、有力な候補として東アジアで発生する黄砂の可能性が高いことを明らかにした。黄砂の発生は大陸域の環境変化と関連しており、降下物中の人工放射性核種は大陸域の環境変化の指標となりうることが分かってきた。

気象研究所では大気フォールアウトの研究と共に、海洋における放射性核種の挙動についても研究を実施している。日本周辺海域に限らず、太平洋の広域に亘って海水試料の採取を実施し、放射能汚染の実態を明らかにしてきた。1960年代後半から1970年代の調査で、海洋表面水中の放射能が、北半球中緯度で高い緯度分布をしていることを明らかにし、フォールアウトの緯度分布に支配されていることが分かった。最近では、海洋表面水中の放射性核種は海洋の物質循環に支配されていることが明らかになった。さらに、海水中の人工放射性核種の分析法の高度化を実現し少試料量で分析可能にした。その結果、137Csの精密鉛直断面を描くことができ、核実験由来の137Cs の主な部分は北太平洋の亜熱帯中層に存在していることを明らかにした。1993年旧ソ連/ロシアによる放射性廃棄物の日本海等への海洋投棄の実態が明らかにされ、それに伴う日本海の放射能調査の実施に参加した。放射能廃棄物による影響は検出されなかったが、調査の結果を踏まえ、日本海固有水の生成過程及び生成場所(ウラジオスットク沖)についての知見を得ることができた。

日本における最近の環境放射能汚染として、1997年の動力炉核燃料開発事業団「アスファルト固化処理施設」の火災爆発事故や1999年のJCOウラン燃料工場における臨界事故があるが、いずれも環境中に放出された放射能汚染は極めて低いレベルで放射能による影響は殆どなかった。このように、環境の放射能汚染は過去の問題ではない。従って、今後とも、環境放射能調査・研究は重要であると考えられる。

現在、気象研究所では放射能調査研究費による特定研究課題として「大気圏の粒子状放射性核種の長期動態に関する研究」、「海洋環境における人工放射性核種の長期挙動に関する研究」及び「大気中の放射性気体の実態把握に関する研究」の3課題で環境放射能研究に取り組んでいる。また、近年諸外国や国内の研究機関との共同研究も進展しており、これらの共同研究の中で懸案であった大気中85Krの分析法も確立することができ、日本における10年近い大気中85Kr濃度の変動を明らかにすることができた。

 

 

200512

気象研究所 地球化学研究部